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「流れに乗る」「目で聴く」

大阪ワークショップでの、左記ワークの感想を掲載します。皆様の参考になりましたら!

参照:
日野晃のさむらいなこころ:「ゴールデンウイークに決して得られないものを得た二人」
日野晃のさむらいなこころ:「判断を超える」

「流れに乗る」

 ワークショップ初日に、「何か具体的なテーマを一つ決めるように」と課題をいただきました。「相手を感じてドキッとした時に逃げる癖がある」ことをこれまで武禅やワークショップで感じていたので、「相手を感じた時に逃げない」をテーマにすることにしました。ドキッとした時にむしろ一歩踏み込む気持ちで臨みました。


 以前先生に「流れに乗る」をやっていただいた時、実際に身体が動かされる前に、頭の中がふわふわして自分で制御できなくなる、そのふわふわごとぜんぶ動くからそのままついていってしまう、という感じになったことを覚えています。また、去年の沖縄ワークショップの時に「腕のリズムに合わせるのではない」と言われてやるとうまくいった経験もありました。腕の振りのリズムではない別の生きたリズムが相手の中にあると仮定して(イメージとしては頭のうえのあたり?)、それを感じていくようにしました。その時に自分の判断や思いがよぎると相手のリズムがわからなくなる(相手のリズムに影響されている感じがなくなる)ので、自分の思考がよぎりそうになる時には視線をあらぬ方向に変えたり表情の感じを変えたりして(先生の真似をする、何も考えていない顔になる、など)雑念を「散らす」ようにしました。相手が感じられると、それが頭の中をよぎって、ふわふわしてなんだかよくわからなくなる、その状態の時には相手の意識も変わっているのではないか、二人の状態がそうなっていることが準備として必要なのではないかと想定しました。


 相手を動かす段階では、相手を動かそうとする意識が働けば働くほどそのふわふわの感じが弱まってしまう。「あ、行ける」という時があるので、そのふわふわごとそいや! とまるごと持って行くのですが、ふわふわには「わたし」「あなた」の区別がない(わからない)ので、結果を言葉にするなら「一緒に行く」になるのかもしれません。ただしその時に「行ける」タイミングを探してしまうとまた弱くなります。繰り返しているうちに、相手をつかむ感じの深浅も感じられてきたのですが、それを気にするとまたかえって遠のくようで、苦戦しました。


 ほんとうにうまくいった時には、「あ」の時に何も考えていなくて、ふと顔を上げた時に相手もこちらを見ているけれども既にピタッとしていて、そこから動いていくまで相手と一緒になっている(抵抗がない)、という感じがありました。ほんとうにピタッとしていれば、こちらの動作に相手が気付くかどうかというようなこととは関係なく動くのかもしれません。


 去年の沖縄ワークショップ以前は全く、一度も、できたことのないワークなので、今回できたときも「ほんとうかな、ドッキリじゃないだろうか」という戸惑いと「意識を感じる方向性、『明鏡止水』の最初の入り口はこの方向でよいのかもしれない」という思いが両方あります。



「目で聴く」
 

 一日目が終わった後、「『目』にしても『聴く』にしても、今の自分の概念で捕えている目で聴く、をやろうとしても別物になってしまう。頭の中自体を変えていかないとだめなのではないか」と考え、二日目からはあまり「目で聴く」という言葉自体に捕らわれずにやろうとしてみました。


 二日目に組んだEさんとはワークショップや武禅で何度もご一緒しているので、雑念や「自分勝手なことをする」が向かい合いを邪魔する、という共通認識がありました。「流れに乗る」時のあのふわふわがここでも前提だろうと考えて、同様の状態に持って行ってから歌い始めるようにしました(そうしないと歌い始められない)。沖縄ワークショップの時の「声を受け取って、届ける」がよかったことをお話して、その時のワークを全力で何度かやると頭が真っ白になる、その時に向かい合うとピッタリする、姿が近くに見える。そこで歌うと比較的声が合ってきました。


 目で聴く、については、相手の体全体、表情のわずかな動き、雰囲気の変化、そんなものをまるごと捉えるようにしました。しかし、先生に「聴く」をやってもらうと、目が先生に吸い付くようで、声は大きいわけでもないのに共鳴して部屋の隅々まで響く。それと比べるとまるで浅い、表面しか合わせていない、タイミングだけは一見合っているようで声が溶け合っていない、と気付き、もっと空間の奥行きや温度、身体の中の意識の動き?や声の抑揚のわずかな変化まで、とにかく自分が今まで目で捕えていたものを超えて捕えようとしました(後から分析的に考えると、そうやって自分の限界を超えようとすることによって、結果的に、自分の意思が相手に向かう、に近いことが起きるのかもしれません。しかしその時は必死でそんなつもりもありません)。その時に自分でがんばるのではなく、自分自身はぼけっとしていたほうがうまくいくと経験上感じていたので、とにかく自分の考えや判断では空っぽで何もしない、ようにしました。


 繰り返しているうち、Eさんに変化がありました。顔が紅潮し、向かい合いによって(なぜだろうか?)感動してくれているのかな、と感じました(特にこちらがぽかんとできている時にそれが起きたような気がします)。その気持ちに僕も突き動かされる感じがありました。そこから何か、質的な変化があったように思います。自分が歌っている、もっとうまくやろうとする、感じが消えて、思いはEさんに向かっているが、歌は自然に出てくる、そのタイミングも声も合わさってきました。声の響きが変わる感じがありました。声が融けて区別がつかない瞬間がありました。日野先生が二人の様子を見て、表情を覗き込んでいるのがわかります。以前ならそういうときに「うまくいってるのかな」「見られている」と意識してしまって気が散るのですが、この時はそんな余裕もない、といおうか、雑念がないわけではないのですが、それも超えてEさんの中心に向かっているのでした。部屋の空気が静まって注意がこちらに集まっているのもわかりましたが、それもさほど気にはなりませんでした。つまり、二人の世界に熱中して周囲が見えなくなっていたわけではなく、周囲はクリアに感じられているのです。ただそれらは副次的なことであって、多かれ少なかれ生じる変な意識よりも「今ここで起こっていること」のほうが理屈ではなく重要なのでした。もちろんその時はこんな風に概念的に知覚していたわけではなく、もっとじかに、いっぺんに起こっていたことなのですが。


 歌い終わって拍手が起きた時も半分呆然とし、半分は頭のなかがはてなで一杯、という状態でした。目で聴く、をしていたようなのですが、自分では「目で聴いている」つもりや実感はありませんでした。改めてその時のことを思い返して言葉になんとか当てはめようとするならば「目で聴く」という言葉は確かに最も近く、他の言葉も思いつかないのですが…… 何となく腑に落ちない気持ちが続いたのは、その出来事を捉えるための価値基準がこれまでの思考の枠組に全くなかったからかもしれません。しかし、こうして整理してみて改めて考えるのは、あの時起きていたのは「(Eさんが向かってきてくれたから、受け止めてくれたから)『今ここ』にいることができた」ということではないか、という仮説です。それがどういうことなのかまだはっきりとわからないのですが、その地点から、そしてあの時の感覚や声の響き、から、自分が抱えている様々な価値判断や概念、思考の癖を一つ一つ検証し直す必要を感じ始めています。

 

 

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