日野晃という名前を知ったのは、著書「ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う」の書名をインターネット上で見かけたのがきっかけです。
個人的に音楽と映像の関係について考えていた時期で、身体感覚にそのヒントがあるのではないかと漠然と思っていた時に、かの世界的コレオグラファー、ウィリアム・フォーサイスを感嘆させた日本人武道家がいる、と聞き、むさぼるように読みました。
内容は驚きの連続でとてもまとめられないのですが、半信半疑になりながらも「自分の考えていた『身体性』などよりもっと深い世界があるのではないか」「人間の可能性は想像以上なのではないか」とワクワクしたことを覚えています。
読後、高揚したままにインターネットを検索していると、なんと2日後に岡山で舞台公演がある! 「これは運命だ」と勝手に一人決めしてチケットを購入し、当日ドキドキしながらホールに向かいました。
第一幕。薄暗い舞台に誰もいない。右端から人物がゆっくりとした足取りで姿を現す。そのままゆっくりと、ステージを横切っていく。それだけなのに心をつかまれる。なんだこれは。観客が固唾を飲んで見守る。舞台上に人が増えていき、見たことのない動きで縦横に駆けめぐる。激しい動きの中で誰もぶつかったりとまどったりしない。でも振り付けだとしたら複雑すぎる。カテゴライズ不能なコンテンポラリー作品なのに、観客が目を離せないでいる、座席のあちこちでぴくりぴくりと震えている。いったいなんだったのだろうかいまだに整理できない、ことばにできない舞台がそこにはありました。
でもこの舞台を見た日から「これが『生きる』なら、今の自分は何か違うぞ、もっとほんとうに生きられないんじゃ、嘘だぞ」という気持ちが少しずつ、逃れがたく膨らんでいったように思います。
それから2年後、岡山ワークショップ開催のフライヤーを見つけた時には、参加しないわけにはいかないと腹をくくりました。
※日野武道研究所ホームページ この時の舞台公演のレポートです。
http://www.hino-budo.com/2010-OKAYAMA-SAITAMA.htm
ワークショップがあると知っても、最初は見学だけさせてもらうつもりでした。生まれてこのかたスポーツはやったことがないし、まして武道などできるはずがない。「フォーサイス」本で書かれていることも高度すぎて、自分など想像もつかない世界だ。参加してもまわりの人に迷惑だ……と思っていました。
思い切って実際に参加してみると、全く違っていました。
スポーツをやっていたから、武術をやっていたからできる・できない、というようなレベルのワークではなかった。できる人が偉い・できないからだめだ、というようなことでもありませんでした。人が生きるうえで大事な、表現したり、伝えたりすることの基礎部分を問い直される時間なのでした。だからこそ日常生活にも直接響いてくるワークショップなのです。
とはいえ、こんなことを考えられるようになったのも何度か参加してからで、最初はとにかく無我夢中。自分の身体がわからない自分・目の前の相手に声を届けられない、聞くこともできない自分に直面し、すっかり頭が混乱してしまいました。
(こんな自分ではどうしようもない。逃げて帰ろうか)と思いながら昼ごはんを買いに行く途中、会場の外で休憩している日野先生をお見かけし、意を決して質問しました。
「先生、何十年も身体を使わずに来て、こんなになってしまいました」
「だから何や」
「……こんな僕でも、まだ間に合うでしょうか?」
「うん、間に合うで」
その時に先生が浮かべられた満面の笑顔を見て、胸がいっぱいになりました。気持ちが吹っ切れました。結局わけがわからないままワークショップは終わり、自分のこれまでの価値観が全く通じず・ガラガラと崩れるような体験の連続に「これからどうすればいいのか……」と途方に暮れる一方で、「どうせ自分の人生なんだ、がむしゃらにやってやる!」という気持ちがこみ上げていました。
それ以来、毎回ワークショップに参加させていただいています。自分では何かができるようになったという感覚はないのですが、参加するごとに、自分のことで精いっぱいだった最初の頃と異なり、他の参加者の顔が、表情が見えるようになってきたように思います。「自分だけが『だめだ』と悩んでいたんじゃない、皆それぞれに課題を持ち、悩みを抱いていたんだな」というふうに。また、一年越しに会う参加者の変化・成長を、素直に喜べるようになっていることにも驚きます。
その変化は日常生活や社会生活でも同じことで、対人関係の視野を広げてくれるワークショップだと思います。身体の使い方を見直したい方はもちろん、人と関わる仕事をされているすべての方におすすめします。
参加者の感想
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